Sample!!

 Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ちで彼を倒すことができるだろうという点にばかり目をつけました。そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。私は彼に向かって急に厳粛な改まった態度を示しだしました。無論策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。私はまず「精神的に向上心のない者はばかだ。」と言い放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向かって使った言葉です。私は彼の使ったとおりを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐ではありません。私は復讐以上に残酷な意味を持っていたということを自白します。私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手をふさごうとしたのです。
 Kは真言寺に生まれた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんなことを言う資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味もこもっているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いてみると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだろいうのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨げになるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。そのころからお嬢さんを思っていた私は、いきおいどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑の方がよけいに現れていました。
 こういう過去を二人の間に通り抜けてきているのですから、精神的に向上心のない者はばかだという言葉は、Kにとって痛いに違いなかったのです。しかし前にも言ったとおり、私はこの一言で、彼がせっかく積み上げた過去をけ散らしたつもりではありません。かえってそれを今までどおり積み重ねてゆかせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
 「精神的に向上心のない者は、ばかだ。」
 私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見つめていました。
 「ばかだ。」とやがてKが答えました。「僕はばかだ。」
 Kはぴたりとそこへ立ち止まったまま動きません。彼は地面の上を見つめています。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいということに気が付きました。私は彼の目遣いを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、そろそろとまた歩き出しました。

夏目漱石[こころ]